それはまだ、恋ではない日々のこと。


「ひつぎさんが星河さんを気に入ってらっしゃる理由がよく分かりません」
 ため息まじりにつぶやいた静久に、玲がちらりと顔をあげた。

 生徒会室の一角。静久は玲と共に黙々と事務処理をこなしている。その後ろやや離れた場所では、ひつぎが窓の外に何かを見つけて、にこにこと面白そうに眺めていた。長くなるなら椅子を勧めようと近寄ると、その視線の先にいたのが彼の人であった。
「お前、ひつぎの興味対象にいちいち嫉妬してて疲れねーの?」
「し、嫉妬って…、別にそういう意味で言ったわけじゃないです。言葉通りの意味で、なんていうか、星河さんという方は良く、分からないです、何を考えているのか」
「そうかな、あれでアイツ結構分かりやすいぜ」
 ぺたんぺたんと、閲覧済み印を押しながら玲がからかうように返事をよこす。静久は玲のこうした所が少し苦手だ。変に親しげで。ところが「はぁ」と気のない相づちを打つ静久に、玲が続けて放った言葉は意外にも真面目な声色で。
「結構冷たいのな、アイツお前のこと好きなのに」
 …。
「は?」
「なんだよ、面と向かって言われたろ? あたしもまさかあの場であんな形で口に出すとは思わなかったけどな」
 玲はぺたんぺたんと、単調なリズムの合間にこともなげに言葉を繋げる。が、静久には面と向かって紅愛とそんな話をしたことなど記憶にない。そう告げると玲が呆れたような顔をした。
「いや、あたしも言葉のはしばしまで細かく覚えちゃいないけどさ、こないだの仕合いが始まる前にひつぎに何が欲しいって聞かれて、お前を寄こせみたいなこと、言ったろ」
「…え」
 それは、確かにそんな会話はあったが。
「あのそれは、その、わざとふざけてというか、挑発というか、そういう…」
「でも、ひつぎにはちゃんと紅愛が本気に見えたんだろ、だからあいつ身体張ってお前のことはやらねーって示してみせたじゃねーか」
 まぁ紅愛なんざまるで相手にしてやしなかったけどな、と玲は笑いながら続ける。
 あっさりと、そんなことを言われても。
 降って湧いた事実。しかしその事実を客観的に捉えようと思えば思うほど、重ねて紅愛のことは良く分からなくなってしまうのだった。

+++

 静久の周りには気配に聡い人が多くて。ひつぎにしても、帯刀や、玲や紗枝にしても、後ろから視線を送っただけで「何?」という問いかけがやってくる。
 ところがこの少女は。
 放課後の教室。ほぼ全ての生徒が下校した夕刻、廊下から見えたのはI-Bの机の群れに小さな背中。開放されていた後ろのドアから入り、綺麗に切りそろえられた髪の真後ろに立つ。…立ててしまった、ことに静久は驚く。てっきり向こうが気付いて振り向くだろうと思っていたので声を掛けそびれたまますぐ近くまで来てしまった。さしたる理由があって近寄ってきた訳ではなかったが故に、これではどうにも居心地が悪い。 
 しかし、確かに視界には入っていないだろうが、足音がしたなら誰何したくなるのが普通なのではないか。クラスメイトが忘れものを取りに来ただけだろうが、何だろうが。空気が変わったことが気にならないのだろうか。
 見下ろす姿は、普段背後から見慣れた椅子に腰掛けたひつぎよりずっと小さい。今は黒い制服の襟元と、乱れのない一線の襟足、そしてそこからのぞく華奢な首筋。
 身体の影になって見えないが、小さく動く手元で何をしているのかは容易に予測がついた。ようするに好きなことに集中していて、こちらに気付かないのだろう。寮にもどってからにすれば良いのに。それでもなんとなく理由が分かってほっとする。変に緊張していた肩の力を抜いて、改めて目の前の人を眺める。
「(髪、まっすぐで、いいな…)」
 黒髪にキラリと光る輪が。あまり身なりに手を掛けているように見られない静久でも、年頃の女の子らしく自分のくせっ毛を少し気にしてはいる。だから。
「何見てるのよ」
 と、振り向きもしないまま不意に掛けられた言葉に正直に返してしまった。
「あ、髪」
 ガタン。と、静久が言い終わるのを待たずに紅愛が慌てたように振り向く。
「っえ?あ、…あ、あーーーーっ!」
 最後のは悲鳴だ。大げさに振り向いた拍子に机の上の小瓶を倒した紅愛の。紅愛の右手の指は小さな刷毛をつまんでいる。つまり、瓶の蓋は開いている。白木色の机の上にダーっと広がるつややかな液体が、窓から差し込む夕日を虹色に反射する。そして慌てて瓶を起こして流れを止めようとする紅愛の手を美しく塗り込めていく。端から見ているとジョークでしかないが、それは当人には不本意に違いない。
「…あ、あの、スミ…マセン」
「なに、してんのよ静久、ここで、ていうか何、なんか用?」
 疑問詞が三つも入っている。相当慌てている。
「ええと、その…」
「静久、鞄開けて」
 聞かれたから答えようとしたのに、それを待たずにまた違う命令をされて静久はちょっとむっとする。この人は上から物を言う。カチンときた静久の顔色に気付いたのか、それともただ単に気が短いのか紅愛がかみつくように続ける。
「内側のポケットにティッシュが入ってるから出して、私、この手で鞄触りたくないのよ、分かるでしょ」
「(…手が汚れてるから手伝って、って言えばいいのに…)」
 可愛くない。――いや違う。言われたように鞄から出したポケットティッシュを二、三枚引き出して手渡すと、紅愛は黙って机を拭い、手を拭っていく。手間を掛けてすまないとも、ありがとうとも言わない。こちらの存在を無視するように目を合わせない。その割に頬が赤い。
 口をとがらせた小さな子供を前にしたような微笑みが口元に浮かんでしまう。それこそ、当人には不本意だろうが。
 可愛いな。
 絶対に自分の過ちを認めようとしない、そういう所が不愉快だと思っていた。負けだわ、なんて口ばかりで、少しもひつぎの力量を認めた様子がなくて、礼儀を尽くして相手をした自分たちに時間の無駄だったと捨て台詞を吐いて。
「星河さん、私だって気付いてなかったの?」
 少し意地悪く口にすると、手の汚れをある程度落とし終えて鞄からリムーバとコットンを取り出す紅愛が、一瞬動きを止める。ぐ、っとつまった、というアレだ。
「…まさか、お忙しいはずの静久がこんなとこでボケボケ他人のこと眺めてるなんて思わないでしょ」
 どうにかして棘を繰り出そうとする憎まれ口が可愛くて。それでも確かに髪に見とれていた自分を知られたことは少し恥ずかしくて。
 うっすらとアルコールの匂いのするコットンを紅愛の手から取り上げて、指先を拭ってやる。
「なっ!にすんのよ、いいわよ、自分でできるから」
「うん」
 女の子らしいほっそりした手、華奢な指。柄を握り込むには頼りない手。この手で、自分たちに向かってきたのだ。欲しいものの為に。そんなものは何もないと言ったくせに。
 振り払おうとせず黙ってされるがままでいるが、不服そうにも平静を装っている表情とは裏腹に捕まえられている手指が熱を持ちはじめている。この熱が、けして正直には口をきかない紅愛の、自分への真実の気持ちだろうか?聞いたところで、どうなるものでもない。自分はひつぎのものだから。
 でも可愛いと、思う。優しくしたいと思う。それはひとつの優越感かも知れず、また別の感情かも知れないが。

+++

 『ほんとは バカにしてるくせにーーー!!!』
 幼い自分がひつぎに放った言葉。そんなことはないんだ、と後ですぐに気がついた。負けず嫌いなだけの自分を、ひつぎは少しもバカにしたりしなかった。
 自分にひつぎの言葉が理解できた訳ではなかった。ただ小さいから理解できなかったのだと思われるのが嫌で、置いていかれるのが嫌で、悔しさだけで落ち枝を手にして向かっていった。その日初めて触れた剣。ひつぎの相手が出来るような腕ではないことは一目瞭然だったのに、あの人は「静久にはできない事なんかないな!」と笑った。
 できない事、それは、今成し得るかどうか、そうではなくて。やろうとしない事なんかない、と、あれはきっとそういう意味だった。
 今の自分の未熟な力量を畏れずに、やれると信じて向かっていくこと。そして…出来ないことを、簡単に認めないこと、認めたがらないこと。
「(星河さんは、昔の私と良く似ている)」
 ひつぎはだから、昔の自分を気に入ってくれたように、紅愛のことも気に入ったのだろう。
 道はひとつではない。ひつぎを見返したくてもう一刀を手にした自分のように。
 犬、と称されたように、付き従うことも訓練に訓練を重ねることもひとつの道だし、黙って爪を研ぐのもひとつの道だ。今はまだ華奢な子猫のようなこの人の可能性を、ひつぎはすぐに見抜いたのだろう。

+++

 静久と紅愛の、繋がった指先の影が机に濃い色を伸ばす。そういえば、ここに来てどれくらい時間が経ったのだろう。10分か、15分か、大したことはない。それでも、同級生として見知っていた四年近い年月より、または同じ白装束を着て同じ場所で過ごした時間より、ずっと彼女の心に近い場所にいる気がする。
 背伸びをした言動の裏にある紅愛の幼さ――幼さ故の虚栄心――に触れてみれば、玲の言うように案外「分かりやすい」とも実感していた。不遜な人だと思っていたが、近づこうともせずに他人を推し量っていた自分の方が、むしろ不遜なのかも知れない。
「(神門さんに聞いたときは、私に興味を持つなんておかしな人だと思ったのにな)」
 気がつけば、自分の方も少なからず紅愛に対して興味を持ち始めている。それを告げたらひつぎはきっと面白がるだろう。たまには妬いてくれても良いのにと思うのだが、残念ながらそれはない。もしかしたら、自分を寄こせと言われた時、あれが一生で最初で最後の機会だったのかも知れない、ちゃんと顔色を窺っておけば良かった。

 汚れた細い指先をちまちまと拭きながら、紅愛のこと、自分のこと、ひつぎのこと…だらだらと思索に耽っていたらバタバタという足音が近づいてきた。
「紅愛ー遅くなってごめんなー あれ? 静久ー?」
 突然現れた嵐に、紅愛が慌てて静久の手を引き剥がす。ああ、なんだ。月島さんを待っていたのか。
「あんまり待たせないでよね、帰るわよ、みのり」
 玲とは少し違うが、ぶっきらぼうな口調。さっさと立ち上がり、朱い頬を隠すようにみのりに背を向けながら帰り支度を始める。静久には何も言わずに。多分それが、この人の刃友への誠実の示し方なのだ。
「じゃあ私は他の教室見回ってから帰りますね、邪魔してごめんなさい星河さん」
「おー静久、お疲れ様ー」
 言い訳じみた言葉に返事をしたのはみのりで。
 静久は去り際軽く手を挙げて応えながら、その素直な口調にちょっとした浮気の共犯者になった気がした。



 それはまだ、恋ではない日々のこと。