長い鉢巻きをたなびかせて、あの人が私の元へ駆け寄って来る。
私の名を呼びながら――。
それは時に心に思い描く場面ではあったけれど、この日ばかりは現実だった。
***
「星河さん――。」
学園内であっても中央の施設からは大きく離れたこのあたりには人影も少ない。ぶらぶら歩きの自分に声を掛けてきたのは、誰よりも今日会いたいと願う相手だった。
同級生なのに、隣のクラスなのに、「会いたい」と願わねばならないほど滅多に顔を合わさないという事実を含めた上で。
「何やってんの、静久。お務めじゃないの?」
紅愛はそぶりだけでも興味なさそうに―そしてやや皮肉を込めて―そう返す。
「ここに居るのが上から見えたから。」
そういえば先程鐘が鳴っていた…、紅愛はふいと視線をそちらに向ける。…あんなところから見えたというのか、どういう視力してるのかしら。
「良かった、まだ居てくれて。はい、これ。誕生日おめでとう。」
普段通りの笑顔で静久が小さな包みを差し出す。が、受け取る側の紅愛はとても普段通りにとはいかない。あからさまに不審そうな目を向けてしまう。
「…なんで?」
「え?」
紅愛と静久は特に親しい間柄ではない。
いや静久と本当に親しい相手なんて一人しかいない。他者とは交わらず、唯一人の為にのみ静久は、在る。
常日頃それを苦々しく思っているが故に、不意の静久の好意的な行動に紅愛は素直に「ありがとう」と言えなかった。
訝しがる紅愛に静久は少し考えた後、これも普段通りのちょっと困ったような穏やかな声で返す。
「大したものじゃないけど、」
ここまでは良かった。だが次がまずい。
「――誕生日知ってて、何もしないのも、どうかなと思って。」
カチン。と、きたことに静久は気付かない。そういう正直で、鈍感で、不愉快なヤツだ。
「そりゃどーも! ありがと!」
静久の手からバッと包みを奪い取るようにして、紅愛はさっさと背を向けてその場を立ち去る。残された静久は紅愛の不機嫌の理由に思い至るまい。知ったことか―、バカ静久。
バカ。バカバカ。義理でしたことだと、口にしたも同じだ。だったらどうして、
どうしてそう、期待させるような真似をするのだ――。
***
怒りにまかせて大股で歩いたところで、簡単に果てまで行き着くほどこの学園内は狭くはない。と、ベンチで本を読んでいる白服に目が留まった。向こうも同じだったらしい。ページを繰る手が止まる。
「今度はカバー掛けてんのね。」
紅愛がからかうように言うと、玲が真っ赤になる。分かりやすくて良い。
「うっせー、放っとけ。」
バシンと本を閉じた玲が紅愛の手元の包みに目をやる。
「何だ紅愛、“遅れバレンタイン”か。」
「違うわよ。」
確かに一週間前には、こうした包みを持った生徒が学内を往来していた。だからといって直ぐに思考がそちらに向かうあたりが、目の前の相手の慎重な割に短慮、というよりは単純なところだ。
玲の場合は鈍感とかそういったものですらないのよね…。紅愛は半ば呆れ気味に今日が何の日なのかを口にする。
「誕生日? お前の? へーそりゃおめでとさん。」
「忘れてたわね」
「忘れてたっつーか、そもそも知らねー。」
そう言われれば教えた覚えもない。
「同級生の誕生日なんかいちいち聞かねーし、まして覚えてるほど暇でもねー。」
「…そうよね。」
そうなのだ。
「…それが普通よね。」
それが普通なのだ。
でも――。口の中で呟く紅愛に、玲が何を勘違いしたのか慌てて言葉を継いでくる。
「な、なんだよ、悪かったよ、放課後どっかで奢ってやるよ。」
「別にいい、寮にもどるわ。」
手の中の包みに、ふいに重さを感じる。
急に雰囲気の変わった紅愛に途惑いつつも、玲もあえて追いかけはしなかった。
***
あっさり授業を放棄して寮の自室に戻る。
小さな包みを解くと、綺麗な小瓶に詰められたとろんとした液体が光る。
紅愛といえば――、と静久の思考が手に取るように分かる。実際紅愛の他の好みについて語り合うような間柄ではないのだから、当然の帰着ではある。それでもあまりの直球さ加減に紅愛は忍び笑いを漏らした。
「かっわいい色…、こういうのが、静久の私に対するイメージなのかしら…」
よく考えたら、あの静久が化粧品売り場をうろうろしているところを想像するだけで可笑しい。玲や紗枝とは違い、あの鉢巻きからして洒落っ気とはまったく無縁といえた。こんなことでもなければ、わざわざ手に取ることはない物だろう。
試しに色を見るだけだ。一度落として磨くのも面倒なので、クリアのトップコートの上から重ねて塗ってみる。
この冷たい液体と刷毛の感触が好きだ。
ただの同級生の誕生日なんか知らない。覚えていない。玲が言ったようにそれが普通だ。
でも――。
でも、静久は知っていた。私の誕生日を。覚えてくれていた。
どうして――?
理由なんて幾つでも思い付く。静久の執務内容から、剣待生の名簿を繰る機会は多い。Sランクまで上がって来る自分に、静久が一切注目をしなかったということもあるまい。覚えやすい日付でもある。
それでも――。
いや。紅愛はいらぬ思索はしないことにした。
静久の心の片隅に、自分の名前が入る隙間があったのなら、それでいい。それだけでいい。それがどんな小さな場所でも、今は――。
「静久――。」
乾いたのを確かめて、一本だけ色の違う薬指の爪をそっと唇に当ててみる。
独特の匂いが、す、と鼻についた。
「静久…すき…。」
素敵な誕生日をありがとう。
終
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