月光ゆれる
さっきから、つごう10回は同じ話を聞かされている。
アルフォンスはげんなりしながら、手の中のグラスを傾けた。目の前では、酒が入って
すっかりご機嫌の金髪金目の物体が、猫のようにふにゃふにゃに軟体化した状態のまま、
べったりとソファに寝そべって笑っている。
エドワード・エルリック。こういう時には認めたくないが、アルフォンスの実兄。そしてこれ
またこういう時は特に言いたくないが、アメストリス国軍の中佐にして、国家錬金術師。
こんな人に部下として使われている皆さんがお気の毒だと同情したくなるほど、今の兄の
状態はいただけない。へらへらして口元にしまりはないし、行儀は最悪だし…って、そう
言えば自分もこの兄の部下だった。仕事でもプライベートでもまんべんなく、いい年をした
兄貴の面倒を見なくてはならないなんて、心底お気の毒だ、自分。
「だーからさあ、アル。俺はそこでな、サテラさんのために医者を連れてこようとしてえー、
雨の中で橋を錬成しようとしたわけだよ」
「知ってるよ」
冷淡に斬り捨てて、アルフォンスは空になったグラスをテーブルの上に置いた。
「僕もその場にいたんだから。距離がありすぎて、向こう岸まで届かないうちに自重で落ち
ちゃって、結局錬成はできなかった。だからウィンリィが赤ちゃんとりあげてくれたんだ」
「よく知ってんなあ、アル」
「だから、僕もその場にいたの。兄さん、頼むからもう部屋に戻って、おとなしく寝て」
「なあんでだよう、気分よくお喋りしてんのにい」
「気分よくお喋りしてんのは兄さんだけだろ、この酔っ払い」
毒づいたつもりだったが、もちろん酔っ払いには通用しない。一体何が可笑しいのやら、
兄は大笑いしながら、アルつめたい、おこってるー、とのたうち回る。
兄はアルコールに強くない。身長が伸びなくなると困るという理由で、飲酒年齢に達して
からも滅多に酒をたしなむことなどなかったのだが、最近は付き合いもあって、酒宴に参加
する回数も少しずつ増えてきた。それでも、ワインをグラスで1〜2杯空けただけで、簡単に
できあがってしまう。
今日二人で飲んでいたのは、司令部の知り合いからもらった自家製の果実酒だ。甘くて
口当たりがいいせいで、日頃は自分で酒量をセーブする兄も、つい油断してジュース感覚で
杯を重ねてしまったらしい。
「いいかげんにしないと本気で怒るよ。もう飲むのやめなよ」
「もう全然怒ってるしー」
「調子に乗って飲みすぎ。まったく、強くないくせに」
「おまえが強すぎるんじゃんー」
「兄さんが弱すぎるんだよ」
アルフォンスはそう言うと、兄の手からグラスを取り上げ、一気に残りを飲み干した。
「ひでえ!横取りした!」
「これ以上は体に毒。はい、寝た寝た」
「…ひとりで?」
アルフォンスは、精一杯怪訝そうな顔を作って兄を見た。ほんのり朱ののぼった頬に、
最近やや伸びすぎの髪がはらりとかかっていて、なかなかに艶っぽい眺めだが、いか
んせん酒臭すぎる。通常時なら寝付くまで添い寝くらいはしてやってもいいが、今この
状態の兄と同衾するのはちょっと遠慮したい。
「当たり前だろ、子供じゃないんだから。ほら、立って」
「やだ、ここでアルと一緒に寝る」
「勝手に決めないでよ、僕は部屋で寝るからね」
「どーしてだよう、俺のことが嫌いになったのかよう」
「なんかすっごい腹立つ、その口調」
「うひゃひゃひゃ」
「変な笑い声たてないでよ」
無理矢理部屋に押し込んでやろうと手をかけてみるも、兄の体はぺったりソファにくっつい
ていて、アルフォンスの力でもなかなか引き剥がすことができない。散歩の途中で時々出
会う、人懐こいダックスフンドの姿が、ふと脳裏に浮かんだ。小さい犬だが、重心が低いので、
いやいや、と足を踏ん張ると、ちょっとやそっとでは動かせなくなる。
あれと同じだな。綱引きで腰を落とせっていうのと同じ原理だ。
アルフォンスはなんとなく納得して手を引っ込め、それなら最終手段で行こうと、兄の顔の
前に屈みこんだ。
「早くベッドに入らないと、僕が襲っちゃうよ。それでもいい?」
お姫様抱きで雑踏の中を一周するぞとか、公衆の面前でキスしてやるぞとか、この手の
脅しは実際、どんな状態の兄にもかなり有効だった。後者はともかく、前者は実際にセントラ
ルシティ駅で敢行したことがある。昔ラッシュバレーの大通りで、よってたかってパンツ一丁に
剥かれたとき以来の恥ずかしい思いをしたという兄は、以後アルフォンスの脅迫にはすっかり
恐れをなすようになった。
ところが、今日は何故か勝手が違った。いつもなら蒼白になって慌てるはずの兄は、ソファに
転がった姿勢のまま、まじまじとアルフォンスの目を見つめ返す。
「……アルがそうしたいんなら、俺は別にいいけど」
その返答を聞くなり、アルフォンスは立ち上がって、ソファの背の側に回った。深呼吸
して気合をためると、ソファの背をまたぐような格好で、思い切り兄を床に蹴り落とす。
「いてえ!何すんだ、この野郎!」
「お黙んなさい」
怒ってわめき散らす兄を、ほとんど抱えるようにしてリビングから撤去し、ベッドに放り
込んで頭から毛布を被せ、間髪を入れずに両手を打ち鳴らす。錬成光とともに体をベッド
に拘束された兄が、ひときわ大声で騒ぎたてた。
「おい!何だよ、何のマネだ!」
「自分が今、どれだけバカな返事したか分かってんの!?そこで朝まで反省してろ!」
一喝して、アルフォンスは乱暴にドアを閉めた。兄が何やら叫んだようだが、それは
無視してリビングに戻る。
もう少し時間が経って落ち着けば、自分の左手だけが自由で、サイドテーブルにある
ペンを取って錬成陣を書けば脱出できるということに、兄も気付くだろう。それまではベ
ッドに繋がれて、せいぜい悔しがっていればいい。もっとも、あの酔っ払いようでは、あと
何分意識を保っていられるかも怪しいものだが。
に、してもだ。
「まったく、人の気も知らないで。いくら酔ってるからって、簡単にあんな返事するなよ、
バカ兄」
ひとりごちながら、酒肴で散らかったリビングを片付けようとして、アルフォンスはふと、
さっきまで兄が懐いていたソファに視線を留めた。まだ体温の残っている場所に、そっと
手を押し当てる。
どうしてアルフォンスを怒らせたのか、きっと兄には一生分からない。そういう兄にして
しまったのは、もしかしたら、アルフォンス自身なのかもしれないのだけれど。
勘違いしないでよ、兄さん。何でも額面どおりに受け止めないで、錬金術以外のことも、
少しくらい掘り下げて考えて。
ぬくもりに頬をすり寄せて、アルフォンスは目を閉じた。
夜空にまだ、月は煌々と明るい。
表の小説部屋の軍兄弟は、こんなかんじでスレスレのバランスを保っているのが理想です。
スレスレだからこそ、なおさら恋愛っぽいという。
短いながら、この兄弟を上條礼様に捧げます。お誕生日おめでとう!2008年1月21日アップ。